恐るべき植物の能力(その1)
時代の変化のスピード
平成から令和へ、「新しい時代への幕開け」と騒がれたのは何だったのだろう。現実には、元号が変わったこと以外にとりたてて変化があったとは思われない。それに比べると、今回の新型コロナウィルス禍に伴って否応なしに進みつつある社会の変化は、皮肉なことに、まさに時代の変わり目を告げるのにふさわしい。
時代の変化は、ずいぶん後になって、あれが時代の変わり目だったと気づくことが常のはず。
でも、今はまさに変化の真っ最中という実感を伴って変化している気がするのは筆者だけだろうか。“オンライン○○”など、いずれはそういう時代がくるだろうと漠然と考えてはいたが、あれよあれよという間に身近なものになりつつある。シニア世代にとっては、その変化のスピードについてゆくのはかなりしんどい。
生き物は今までと何ら変わらない
筆者は、「緊急事態宣言」が出されてからの自粛期間にも、正直言って特に外出を抑えたわけではなかった。根っからの趣味もあって、地元の郊外にある自然豊かな場所を散策して、植物や生き物に触れ、彼らの日常の営みをじっくりと観察してはカメラに収めていた。人類はパンデミックの真っ只中にあっても、彼ら生き物は今までと何ら変わることもなく、日常の生活を普通に続け、懸命に命をつないでいる。動物の細胞の中でしか生きていけないウィルスは、実は彼らの体内にも入り込んでいるのではないだろうか、そして宿主動物と平和的に共存しているのではないだろうか。時にこんなことにも思いを巡らせていた。逆に言えば、それほどウィルスが筆者の頭の中を占めていた証左と言えるかもしれない。
その一方、自然豊かな所に身を置く心地よさはまたこれ格別である。いわゆる森林浴効果だ。森林から蒸散されるフィトンチッドを浴びてのこのような散策が、免疫力を高めることにもつながり、ウィルスに対する防衛力も強くなるはずだと勝手に納得もした。このようにフィトンチッドを独り占めさせてもらいながらも、多くの子ども達が自宅で気持ちを抑えながらの鬱々とした日々を過ごしているのだろうと考えると、いささかの罪悪感に苛まれたことも事実である。自粛することが美徳とされ、同調圧力が強かった中でのこうした散策はいわば勇気の要ることでもあった。
こうしてほとんど誰もいない森林や湖畔で過ごして心の栄養を吸収できたこの期間は、考証癖が少しは残っている筆者にとって、木などの植物の有り難さを改めて考えてみる機会ともなった。そして、素人であることによる誤りは承知の上で、植物について少しばかりしたためてみることにした。
光合成について
野鳥の撮影も大好きな筆者ではあるが、今の時期はほとんどそれを諦めている。葉が生い茂り、木にいる野鳥を覆い隠してしまい、良い写真を撮るのに骨が折れるからだ。しかし、多くの野鳥たちはこの時期に子育てをしている。巣立ったばかりの幼鳥たちが毛虫などのエサを求めて、新緑で覆い尽くされた木の中に入り込んでおり、彼らの営みを撮るには絶好のチャンスであるにもかかわらずである。
考えて見れば、なぜ枝から出ている葉っぱは、このようにお互いに余り重なり合うこともなくこのように広がっているのだろうか。それは言うまでもなく、どの葉っぱも太陽光線を浴びたいからに違いない。植物は陽の当たる方向に伸びようとすることはよく知られている。当たり前のことではあるが、光がないと植物は育たないのだ。
さてこうして受け止めた太陽光線を活かして植物が行っているのはあの有名な光合成である。この仕組みは大変複雑なもので、一口に言うのは不可能のようだ。しかしあえて結論だけを簡単に言えば、水(H2O)と二酸化炭素(CO2)からブドウ糖(グルコース、C6H12O6)を作り、さらにはそれらが重合してデンプンを作り出していると言えるだろう。これについては、筆者も中学校で習った記憶がかすかながらある。我々が習った頃は、確か炭酸同化作用と呼んでいたはずだ。そしてブドウ糖と共に作っているもう一つ重要なものがある。それは言うまでも無く、酸素である。
ありえないことを成し遂げるエネルギー
先日、孫に中学校の教科書を見せてもらうと、1年生の科学の教科書に光合成の関する記述を見つけた。ついでに言うと、現行の理科(科学)の教科書を初めて見たのであるが、きれいな写真や絵が満載で、実験内容も多く、ながめるだけでも結構楽しめるもので、これまたびっくりであった。
二酸化炭素と水からグルコース(ブドウ糖)を作る過程を反応式で書けば
6CO2 + 6H2O → C6H12O6 + 6O2(1)
となる。これを見ると、すごい反応だなと改めて思う。二酸化炭素も水も極めて安定な物質である。安定ということは、他と反応しにくいということである。こんな安定なもの同士は、通常は絶対に反応なんか起こすはずもない。普通はその逆反応しか起こらないはずだ。逆反応はもちろん下記の反応である。
C6H12O6 + 6O2→ 6CO2 + 6H2O (2)
なんのことはない、反応式(2)はグルコースの燃焼反応なのである。現役時代は化学を生業にしていた筆者の言わば昔取った杵柄ではあるが、(2)の反応では計算上は2,820kJ/molの熱量を発生する。ちなみにメタンは890kJ/mol、プロパンは2,220kJ/molであり、それと比べてもグルコースの燃焼熱の大きさがわかる。単純化して言えば、それだけの大きなエネルギーを加えないと(1)の反応は起こりえないと言える。とにかく通常の化学反応としては絶対的に上記の反応式(2)しかあり得ない。しかし、あり得ない反応(1)を植物は行っているわけである。あり得ないことを成し遂げるエネルギーを植物に与えているのが実は太陽光線なのだ。このあたりは続編に書いてみたい。
動物と植物の良い関係
さて、植物の内部には、根から茎を経て葉に至る維管束と呼ばれる管があり、そこには、水分を通す道管(導管と習った覚えがあるが)と光合成で作られたデンプンを含む水溶液を通す師管(しかん)がある。この師管もふるい管と教わった気がする。ふるい管は篩管と書くのであろうが、これをしかんと呼んでいたのであろう。今は篩管ではなく、師管と書くとのこと。筆者の記憶違いなのかもしれないが、こうして見ても、用語もいろいろと変わったものだ。そう言えば二酸化炭素ももっぱら炭酸ガスと呼んでいた。
そもそも植物は何のためにこんなことをしているのだろうか。私たち動物が呼吸するために酸素を作ってくれているのだろうか。それは結果としては間違いではないかもしれない。動物が排出する二酸化炭素と水を原資として酸素を作ってくれ、その酸素とグルコースを頂戴して動物は活動している。二酸化炭素が無いと植物は育たないし、酸素が無いと動物は生きられない。実に良い関係である。でも植物がこんな素晴らしいことを行っているのは別に私たち動物のためだけではない。そんな主従関係ではない。
二酸化炭素を資源として生かす発想
またまた横道にそれるが、これに関連して、筆者も少しばかりお手伝いさせてもらっている農業における新しい取り組みについて少し書こう。竹チップの発酵を利用する農業である。竹チップはある菌により容易に発酵し、70~80℃の温度が数ヶ月間も保たれるという。こういう結果を明らかにしたのは、輪島市の(株)サクシードによる研究だ。その発酵により熱と共に二酸化炭素も生成する。その発酵槽をビニールハウス内に設置すると、安定した発酵に伴って生ずる熱と二酸化炭素が農作物の生長を大いに促進するのである。現在は岐阜大学の嶋津先生のご協力で、基礎的検討が進められている。発酵済みのものは堆肥として使用可能であり、放置された竹の活用、重油いらずの暖房などと併せて、完全循環型農業の一形態として、筆者も大いに注目している。ここで言いたかったのは、太陽光が十分強い時には、二酸化炭素の量により光合成の速度が決まり、二酸化炭素濃度を高くしてやれば、植物の成長速度が増すということである。こうして二酸化炭素を資源として積極的に活かす発想はいろんな意味で有意義ではないだろうか。
そもそも二酸化炭素は温室効果ガスとして地球温暖化の主犯とされている。しかし、大気に含まれる量は実際にはほんのわずかだ。大気は8割近くが窒素で、2割ほどが酸素であることはよく知られていること。二酸化炭素と言えば、わずか0.03%くらいしかないのだ。これが少しずつ増えてきていることが問題なのだ。ならば植物を増やせば良いではないか。その通りだが、実際には人類による開発に伴って恐ろしいスピードで森が消えつつあり、いっそう地球温暖化が加速されているのが現実である。
植物があるが故に身につけた枝
本論に戻ろう。このような植物の光合成は、本来は動物のために行っているのではない。自分たち植物の成長のための栄養素を作っているのである。葉で作られたデンプンは師管を通って木全体の細胞に運ばれて使われるのだ。つまり、自分の体内で自分の成長のための栄養素を作り出しているのである。まさに私たちにはできない技なのだ。私たち動物は食料を得るためには自由に移動しているが、これができない植物であるがゆえに身につけた技と言っても良いかもしれない。前に述べたように、私たちはこうして植物が作ってくれた栄養成分を食べて命をつないでいる。そもそも農業はこうした植物の光合成を利用して成り立っているわけだ。こう考えると、植物には頭が上がらない。(続く)